店長のひとり言 part6「20代の傷」

20代の傷

 

 20代の頃、私もえらい悲しいことに出合って、本当に嘆き悲しんで、心の整理がつかなかったんですよ。そういうとき、何をするかというと、ふたをしちゃう。そのことを考えないことにしちゃった。それ、無意識にやってるんです。心の奥に、時限爆弾のように、整理しないまま、しまってあったんです。手榴弾ってありますよね、あのピンを抜かずに、それをふたしちゃうわけ。
 後々、いろんな本を読んだり話を聞いたりして、知識を得てから振り返ったとき、まさにそうだったなぁと。

 

 それで、2年前、その昔の悲しいアクシデントの手榴弾の安全ピンを、ようやく自分で抜くことができたんです。

 

 ずっと安全ピンを抜けなかったのは、自分がなくなることへの恐怖心だったんだね。暗闇って、無に近い。光さえないんだから。無というのは闇の世界に通じる。自分の目を閉じたときとか、あるいは真っ暗闇の中に入ったとき、恐怖心を覚えるわけです。そこで、ライターで火をつけたり、小さな豆電球でも一瞬にして光がくると、闇の世界から明の世界へ変わって、安心する。
 つまり、自分の中に、闇とか、亡くなるとか、命がないとかいうものに対しての理解、気づきがないと恐怖になるんだよね。

 

 なんか最近、暗い方が好きになっちゃって。あんまり明るいとまぶしいっていうか。昔は暗い部屋っていうと不気味だったんだけど、いまはふつうにいられるようになった。風呂入るときも電気消して入ったりね。あぁ、これが近いかもなって。暗い方が人間の本質かなって。自分の意識がない状況、自分を自分のことだと思わない、それに近いことがとても魅力的に思えて。

 

 私の友人に、アルゼンチンのブエノスアイレスに住んでる加藤さん、セニョール・カトウというのがいて、この前、日本に来たとき、いまみたいな話をしていたんだけど。それで、そうは言いながらも、たとえば末期がんでもう手の施しようがないと宣告されたとき、でも、意識はそれなりに残っているときに、ほんとに自分が無に帰するとき、死に往くときに、平然と「さぁ、これから元に、ものの本質に還るんだ」って、そういう安らかな気落ちになれるのかどうかって自問自答すると、ちょっとわからないよねって言ったんだけど。

 

 そうしたら、そのセニョール・カトウ、彼は昔の武士みたいな人で、ブエノスアイレスに住んではいるけど、ほんとに武士のまま。それで、「方ね、死に往くときほど楽なときはないよ」って。「一瞬の痛みはあるかもしれないけど、でも、やっぱり生きてることの方がとても大変だよ。生きながらえて、自分の体を病気にならないように維持して、家族の面倒を見るような立場にいるっていうのは。昔の武士なんて、ブスッとやればコロッと倒れる。一瞬はチクッとするだろうけど、すぐにスーッと意識がなくなるんだよ」。そういう凄まじいことを言う人なんです。
 すごい人がいるなぁって。そういう感覚の人がまわりにもっと増えればね、もうちょっと楽しくて住みやすい社会になるのかもしれないけど。

 

 それで、その手榴弾ですか? それは無事に処理できましたよ。遅かれ早かれ、そうしたんだろうなぁって。

 

 早くね、早く無に帰して、たとえば大きな海、大海に戻る人は早く戻る。自分は海洋学部だったから、そういうふうに思うのかな。

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